ビジネスブログ
2020年01月14日 [ニュース]
介護という名の迷宮 〜専業主婦、50代女性のケースより〜
なぜ私だけがこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。世間的レベルからすれば、幸せと言えるのかどうかはわからない。それでも、まぁ、私の人生、こんなものかなぁ…と納得していたはずだった。それなりの結婚をして、ふたりの子どもにも恵まれて、ありがたいことだと感じていた私だった。それが、夫のたったひと言に端を発して、音を立てて崩れていった…。
「会社の早期退職制度、申し込んだから。年明けからは地元に帰って両親と暮らすぞ」
寝耳に水とはこのことです。夫の独断専行に押し切られる形で、息子と娘を東京に残し、私と夫は新潟へ移り、夫の実家で暮らすことになりました。
遡ること2年前、糖尿病を悪化させ右脚を大腿部から切断した義父の面倒をみてきたのは義母でした。ところが、ここへ来て義母が入院。ケアマネジャーから仕事中の夫のもとへ緊急連絡が入り、三日ほど悩んだ挙句、今回の決断になりました…。
夫からそんな経緯を聞かされたのは、新潟へ向かう新幹線の中のことでした。一方的な話です。あまりに突然かつ理不尽な話に離婚という二文字が頭をよぎったりもしましたが、子どもたちが社会人になるまではと心に決めて、辛抱することを決めたのでした。
新潟での生活は、それはそれは想像を超える壮絶な日々でした。義父の介護疲れで倒れた義母に、認知症の症状が出始めたのです。同居を開始して間もなく、父のおむつ交換をしている時、腰のあたりに衝撃が走りました。一瞬、何が起こったのかわかりませんでしたが、振り返ると、そこには竹ぼうきを持った義母が。私は義母に竹ぼうきで叩かれたのでした。仁王立ちで鬼の形相の義母は、私に向かって
「何やってんだ! このドロボウ猫め!」
と、大声でわめき散らしています。私は自分の目と耳を疑いました。
動転した私は必死で夫を呼びましたが、夫の姿を見ると義母は態度を一変。「あらぁ。私、どうしちゃったのかしら…」などと言いながらその場を立ち去った。事の次第を告げる私に、夫は言いました。
「そんなこと、あるわけないだろ。何かのまちがいだ」。
その後も義母の言動には解せないことが続きます。義母はお金がなくなったと騒いでは、
「お前が犯人にちがいない」
とののしり、あることないことを近所に触れまわるのでした。
私は夜毎、ひとり布団の中で涙するようになりました。知り合いもいない新潟まで来て、義理の両親の介護要員としてフル稼働を強いられ、体重も激減してしまいました。子どもたちからの励ましのメールだけを支えに、何とか頑張るしかないと、自分に言い聞かせる日々でした。
そんな生活が半年ほど経った頃、義父が心筋梗塞で突然、他界しました。葬儀のさなか、義父の尿と便の後始末の毎日からやっと解放されたと、ホッとしている私がいました。
しかし、義父の死後、義母の変化が加速していきます。モノ盗られ妄想・虚言・暴言に加え、排泄まわりにも支障をきたすようになりました。ケアマネジャーは施設への入所を勧めてくれるのですが、地元では親孝行息子として通っている夫は、頑として首を縦に振りません。地元で高校時代の後輩が経営する会社に再就職した夫は、介護にはまったく関わろうとせず、のんきにも充実した毎日を過ごしているようでした。
ある日のこと。お腹を下した義母がパジャマも下着も汚れたまま、何食わぬ顔で家の中を歩き回っていました。家じゅうに汚物が散乱し、汚臭が漂っています。 私は急いでジャージに着替え、マスクにビニール手袋をつけ、ようやくの思いで義母をバスルームに押し込みました。
そして…。
いくら言うことを聞かせようとしても抵抗して衣類を脱ごうとしない義母に、私はシャワーを向けました。
「ぎゃ〜、熱いよ」
「うわぁ〜、冷てぇよ」
とわめく義母に一心不乱でシャワーを浴びせていました。どれくらいの時間が経ったのでしょうか。悪夢のような掃除を終えた私は、膝から崩れ落ち、床に嘔吐していました。涙が止まりませんでした。
義母は、その後もたびたび同様のことを繰り返しましたが、夫は、
「そんな話はもうたくさんだ! 病人なんだから仕方ないだろ!」
と、まるで取り合ってくれません。実家を留守にする回数も増えていきました。 至急連絡を取りたくて携帯電話を鳴らしても、電源を切っているようでつながりません。やむを得ず会社に電話をかければ、帰宅後にすごい剣幕で怒鳴られます。
そんなある日、義母が徘徊してなかなか家に帰らない時がありました。私は、事故にでも遭って、このまま義母が戻らなければいいのに…と願っている自分に気づきました。とんでもないことをしでかしてしまいそうな自分が怖くなりました。とんでもないことをしてしまう前に何とかしなければと、意を決して夫に告げることに。
「もう限界です。お母さんを施設に入れてくれないのであれば、私は東京に戻ります」
夫は逆上して私に手を上げました。このとき私は、心の底から夫を憎いと思ったのです。この夫と義母によって、自分の人生が台無しにされている現実を恨み、呪うのでした。自分の親にだけでなく、長年連れ添ってきた私にまで冷たく当たる夫に背筋が凍る思いでした。
息子と娘に電話をすると、
「おかあさん。もういいんじゃない? 東京に戻っておいでよ。3人で暮らそうよ」
と、やさしい言葉をかけてくれました。携帯電話を握り締めたまま、涙が止まりませんでした。まわりに相談する人もなく、死んでしまいたいと思いながら、除菌剤と消臭剤を買いに通う日々の私にとって、息子と娘だけが救いなのでした。
その後も、来る日も来る日も、義母の汚れた下着とベッドの始末の繰り返し。相変わらず夫は、「姑の世話をするのは嫁の仕事」とのスタンスを変えずにいます。
数日後、決死の覚悟で、
「もう、あなたの親の下の世話なんてごめんです。別れてください」
と宣言した私に、夫は大暴れした後でこう言いました。
「いやなら出ていけ! お前ひとりで何ができる?」
翌朝、私はハンドバッグひとつで、ひとり東京行きの新幹線にとび乗っていました。東京駅には子どもたちが迎えに来てくれていました。私は人目もはばからず、すがるように娘と息子に抱きつき声を上げて泣きました。その足でカフェに入り、私が落ち着くと、息子が切り出したのです。
「いろいろ調べてみたんだけど…。ここ、一緒に相談に行ってみようよ」
娘を見ると、
「そうだよ。いろんなこと、はっきりさせたほうがいいと思うよ」
そういって笑顔でうなずいてます。
数日後、横浜にある社会福祉士事務所を訪れた私は、家族関係修復についてのガイダンスを受けるとともに、自分が本当はどうしたいのかを冷静に考えて教えてほしいと告げられました。
そして一ヵ月後。私は、夫の署名捺印がされた離婚届を手にすることができたのです。さらに二ヵ月後には、和解金という名目で、数百万円が入金されました。
あのとき決断して、本当によかったと思っています。背中を押してくれた子どもたちに、心から感謝しています。自分の人生をやりなおす、その再スタート地点に立てたよろこびでいっぱいです。別れた夫のことがたまに頭をよぎりますが、それは心配や気遣いとはあきらかに異質のものです。
そして私は今、息子と娘に「ちょっと早くない?」といじられながらも、自分自身が老いの過程で向き合う可能性の高いリスクについて、何をどうしたいのか、息子と娘には何をお願いする可能性があるのか…。社会福祉士の方のアドバイスをいただきながら、考えをまとめてしたためる作業にとりかかっています。行く末に、子どもたちになるべく迷惑をかけぬよう、元気なうちにこそ準備しておかなければいけないと思うからです。新潟での、あのおぞましい生活が、私にきわめて重要な教訓をくれたのだと思っています…。
【私からのコメント】
彼女の決断は正しかったと思う。むしろ、もっと早く動くべきだった。そうすれば、離婚にまで至らなかった可能性もある。しかし、離婚したとしても女性は強いし、切り替えも早いからから大丈夫。お子さんたちも、多くの場合、母親側につく。危惧するのは、企業戦士と呼ばれた昭和世代気質を引きずっている男性である。このケースでも、威勢よく離婚を承諾したご主人側の顛末が気にかかるところである。
夫婦の共働きが当然のように思われている今日だが、夫が大企業に勤務している場合、妻が専業主婦で、夫の両親の介護にかかわらざるを得ないケースが意外と多いように感じる。夫婦ともに老親が顕在の場合、合計4人のエンディング対策が必要になるわけだ。企業としては、社員のみならず配偶者やその親まで含めて、いつでも・なんでも・気軽に相談できる窓口を整えておくべき時代が来ている。もちろん、そんな窓口は地域にもあって然るべきだ。
「会社の早期退職制度、申し込んだから。年明けからは地元に帰って両親と暮らすぞ」
寝耳に水とはこのことです。夫の独断専行に押し切られる形で、息子と娘を東京に残し、私と夫は新潟へ移り、夫の実家で暮らすことになりました。
遡ること2年前、糖尿病を悪化させ右脚を大腿部から切断した義父の面倒をみてきたのは義母でした。ところが、ここへ来て義母が入院。ケアマネジャーから仕事中の夫のもとへ緊急連絡が入り、三日ほど悩んだ挙句、今回の決断になりました…。
夫からそんな経緯を聞かされたのは、新潟へ向かう新幹線の中のことでした。一方的な話です。あまりに突然かつ理不尽な話に離婚という二文字が頭をよぎったりもしましたが、子どもたちが社会人になるまではと心に決めて、辛抱することを決めたのでした。
新潟での生活は、それはそれは想像を超える壮絶な日々でした。義父の介護疲れで倒れた義母に、認知症の症状が出始めたのです。同居を開始して間もなく、父のおむつ交換をしている時、腰のあたりに衝撃が走りました。一瞬、何が起こったのかわかりませんでしたが、振り返ると、そこには竹ぼうきを持った義母が。私は義母に竹ぼうきで叩かれたのでした。仁王立ちで鬼の形相の義母は、私に向かって
「何やってんだ! このドロボウ猫め!」
と、大声でわめき散らしています。私は自分の目と耳を疑いました。
動転した私は必死で夫を呼びましたが、夫の姿を見ると義母は態度を一変。「あらぁ。私、どうしちゃったのかしら…」などと言いながらその場を立ち去った。事の次第を告げる私に、夫は言いました。
「そんなこと、あるわけないだろ。何かのまちがいだ」。
その後も義母の言動には解せないことが続きます。義母はお金がなくなったと騒いでは、
「お前が犯人にちがいない」
とののしり、あることないことを近所に触れまわるのでした。
私は夜毎、ひとり布団の中で涙するようになりました。知り合いもいない新潟まで来て、義理の両親の介護要員としてフル稼働を強いられ、体重も激減してしまいました。子どもたちからの励ましのメールだけを支えに、何とか頑張るしかないと、自分に言い聞かせる日々でした。
そんな生活が半年ほど経った頃、義父が心筋梗塞で突然、他界しました。葬儀のさなか、義父の尿と便の後始末の毎日からやっと解放されたと、ホッとしている私がいました。
しかし、義父の死後、義母の変化が加速していきます。モノ盗られ妄想・虚言・暴言に加え、排泄まわりにも支障をきたすようになりました。ケアマネジャーは施設への入所を勧めてくれるのですが、地元では親孝行息子として通っている夫は、頑として首を縦に振りません。地元で高校時代の後輩が経営する会社に再就職した夫は、介護にはまったく関わろうとせず、のんきにも充実した毎日を過ごしているようでした。
ある日のこと。お腹を下した義母がパジャマも下着も汚れたまま、何食わぬ顔で家の中を歩き回っていました。家じゅうに汚物が散乱し、汚臭が漂っています。 私は急いでジャージに着替え、マスクにビニール手袋をつけ、ようやくの思いで義母をバスルームに押し込みました。
そして…。
いくら言うことを聞かせようとしても抵抗して衣類を脱ごうとしない義母に、私はシャワーを向けました。
「ぎゃ〜、熱いよ」
「うわぁ〜、冷てぇよ」
とわめく義母に一心不乱でシャワーを浴びせていました。どれくらいの時間が経ったのでしょうか。悪夢のような掃除を終えた私は、膝から崩れ落ち、床に嘔吐していました。涙が止まりませんでした。
義母は、その後もたびたび同様のことを繰り返しましたが、夫は、
「そんな話はもうたくさんだ! 病人なんだから仕方ないだろ!」
と、まるで取り合ってくれません。実家を留守にする回数も増えていきました。 至急連絡を取りたくて携帯電話を鳴らしても、電源を切っているようでつながりません。やむを得ず会社に電話をかければ、帰宅後にすごい剣幕で怒鳴られます。
そんなある日、義母が徘徊してなかなか家に帰らない時がありました。私は、事故にでも遭って、このまま義母が戻らなければいいのに…と願っている自分に気づきました。とんでもないことをしでかしてしまいそうな自分が怖くなりました。とんでもないことをしてしまう前に何とかしなければと、意を決して夫に告げることに。
「もう限界です。お母さんを施設に入れてくれないのであれば、私は東京に戻ります」
夫は逆上して私に手を上げました。このとき私は、心の底から夫を憎いと思ったのです。この夫と義母によって、自分の人生が台無しにされている現実を恨み、呪うのでした。自分の親にだけでなく、長年連れ添ってきた私にまで冷たく当たる夫に背筋が凍る思いでした。
息子と娘に電話をすると、
「おかあさん。もういいんじゃない? 東京に戻っておいでよ。3人で暮らそうよ」
と、やさしい言葉をかけてくれました。携帯電話を握り締めたまま、涙が止まりませんでした。まわりに相談する人もなく、死んでしまいたいと思いながら、除菌剤と消臭剤を買いに通う日々の私にとって、息子と娘だけが救いなのでした。
その後も、来る日も来る日も、義母の汚れた下着とベッドの始末の繰り返し。相変わらず夫は、「姑の世話をするのは嫁の仕事」とのスタンスを変えずにいます。
数日後、決死の覚悟で、
「もう、あなたの親の下の世話なんてごめんです。別れてください」
と宣言した私に、夫は大暴れした後でこう言いました。
「いやなら出ていけ! お前ひとりで何ができる?」
翌朝、私はハンドバッグひとつで、ひとり東京行きの新幹線にとび乗っていました。東京駅には子どもたちが迎えに来てくれていました。私は人目もはばからず、すがるように娘と息子に抱きつき声を上げて泣きました。その足でカフェに入り、私が落ち着くと、息子が切り出したのです。
「いろいろ調べてみたんだけど…。ここ、一緒に相談に行ってみようよ」
娘を見ると、
「そうだよ。いろんなこと、はっきりさせたほうがいいと思うよ」
そういって笑顔でうなずいてます。
数日後、横浜にある社会福祉士事務所を訪れた私は、家族関係修復についてのガイダンスを受けるとともに、自分が本当はどうしたいのかを冷静に考えて教えてほしいと告げられました。
そして一ヵ月後。私は、夫の署名捺印がされた離婚届を手にすることができたのです。さらに二ヵ月後には、和解金という名目で、数百万円が入金されました。
あのとき決断して、本当によかったと思っています。背中を押してくれた子どもたちに、心から感謝しています。自分の人生をやりなおす、その再スタート地点に立てたよろこびでいっぱいです。別れた夫のことがたまに頭をよぎりますが、それは心配や気遣いとはあきらかに異質のものです。
そして私は今、息子と娘に「ちょっと早くない?」といじられながらも、自分自身が老いの過程で向き合う可能性の高いリスクについて、何をどうしたいのか、息子と娘には何をお願いする可能性があるのか…。社会福祉士の方のアドバイスをいただきながら、考えをまとめてしたためる作業にとりかかっています。行く末に、子どもたちになるべく迷惑をかけぬよう、元気なうちにこそ準備しておかなければいけないと思うからです。新潟での、あのおぞましい生活が、私にきわめて重要な教訓をくれたのだと思っています…。
【私からのコメント】
彼女の決断は正しかったと思う。むしろ、もっと早く動くべきだった。そうすれば、離婚にまで至らなかった可能性もある。しかし、離婚したとしても女性は強いし、切り替えも早いからから大丈夫。お子さんたちも、多くの場合、母親側につく。危惧するのは、企業戦士と呼ばれた昭和世代気質を引きずっている男性である。このケースでも、威勢よく離婚を承諾したご主人側の顛末が気にかかるところである。
夫婦の共働きが当然のように思われている今日だが、夫が大企業に勤務している場合、妻が専業主婦で、夫の両親の介護にかかわらざるを得ないケースが意外と多いように感じる。夫婦ともに老親が顕在の場合、合計4人のエンディング対策が必要になるわけだ。企業としては、社員のみならず配偶者やその親まで含めて、いつでも・なんでも・気軽に相談できる窓口を整えておくべき時代が来ている。もちろん、そんな窓口は地域にもあって然るべきだ。